猫目雑録
真魚八重子

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第4回
実家がなくなった!(4)
「母の被害妄想」

 実家は母の生家だ。築80年以上の日本家屋で、田舎のため庭や家も無駄に広い。父はサザエさんのマスオさんと一緒で、婿養子ではないが、母の両親と同居して祖父の会社を継いだ。そのため母はこの家で育って結婚もし、一度も実家を離れて暮らした経験がない。当然、この家で最期の時までを過ごすと思っていた。
 しかし亡くなった長兄による借金や母の貯金の使い込みは、母に思わぬ形で降りかかることになった。実家の土地は長兄の名義になっていたため、遺産として継ぐことになった甥は相続税を支払わなければならない。それが700万ほどになるようだとわかり、どうやって支払うかという問題が浮上した。兄は生命保険に入っていたので、まとまったお金はおりたが、それはリボ払いでたまった借金の返済に充てることになった。その残りをなんとか見繕っても相続税に回すだけの金はなく、わたしたちは税理士も交えた話し合いのすえに、実家の土地を売るしかない、という結論に至った。
 しのびなかったが、母に事情を説明した。もし母の貯金が残っていれば、そこから相続税を払って、甥が後々母に返済していくという方法も取れたけれど、今の貯金の残額ではそれもできなかった。不動産屋には、幸い立地が良いのでそれなりの値段ですぐ買い手がつくだろうと言われた。しかし土地が人手に渡れば、家も取り壊されてしまう。そうなれば、母にはアパートを借りて一人暮らしをするか、高齢者施設に入るという限られた選択肢しかなかった。
 案の定、母は納得しなかった。「土地は誰かに買ってもらっても、わたしが住み続けることを許してもらえばいいんじゃないの?」「土地を部分的に売って、残した所に小さいうちを建てて住めばいい」と、母はとんちんかんな提案をし続けた。おそらく土地を手放す理由を理解していなかったのだろう。耄碌もあったが、母は大人ならばなんとなく身についている社会常識を知らずに生きてきたところがあって、どれほど噛み砕いて説明しても、「自分に難しい話はわかるわけがない」と、最初から理解を放棄している気配がした。
 この頃から、母に被害妄想の兆しが見え始めた。母は長兄の離婚原因を「妻が守銭奴だったため」と思い込んでいたので、甥が土地を相続するのを、別れた兄嫁が裏で糸を引いていると考えてしまった。「息子が継ぐのは法律だから」と説明しても、母には悪い者たちが策略を巡らして家を乗っ取ろうとしていると、そう思えて仕方がなかったようだ。しかし、母は怒りと同時に恐怖心も持っていた。「もし気に障ることをしたら、どんな仕返しをされるかわからない」と折に触れて言った。悪い者はあつかましいゆえに逆恨みをするので、いやなことをされても、指をくわえて見ているしかないというのが、母の言い分だった。
 この論法でいくと、悪い人に見込まれた時点で終わりだ。諦めるしかないし、愚痴を言ってもどうしようもない。しかし母は毎日のように電話してきては、兄嫁や甥を悪しざまに言った。かといって、困り果てたわたしが「専門家に土地を売らない方法を相談してみよう」と提案しても、歯切れの悪い返事でうやむやにしてしまう。
 母の気持ちはわかるけれども、毎日埒のあかない会話に付き合わされるのは心理的に苦痛だった。それに母は認知症も始まっていて、同じ話を何度もするようになり、それが繰り返すうちに妄想で脚色されていくのも気が滅入った。わたしは徐々に、わりと好きだった料理をするのが億劫になり、ふさいだ気持ちを無理にでもあげようと、早い時間からお酒を飲むようになった。自分でも、これはうつ症状が出ているなと自覚があった。ただし一年後、それは自分が思っていたような軽度ではなく、重症なうつ病だと診断されることになった。

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