猫目雑録
真魚八重子

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第9回
実家がなくなった!(9)
「団地に見学へ」

 実家を取り壊す作業を進めるために、母には介護施設が必要になるまで、別の場所で一人暮らしをしてもらおうと考えた。いま思えばとんでもない二度手間をしようとしていたが、しかしこの時期の母は、介護施設へ入るにはまだ早い感じがあったのだ。甥が単身高齢者向けにリフォームされた、賃貸の団地を見つけ出し、わたしたちは内覧に出かけた。
 暑い日だった。不動産屋さんと共に、昔から地元にあってなじみ深い団地に赴いた。今回空き部屋になっているのは、高齢者が出入りしやすい1階で、浴室などに救急ボタンが設置されている物件だ。
 駐車場からその棟に行くまでの間に、母が「心臓がとんでいるからもう歩けない」と言い出した。母は不整脈の持病がある。しかし、それは駐車場と目的地のちょうど真ん中で、引き返すのも大変な場所だった。不動産屋の若い女性は心配し慌てたが、どうすることもできないので、わたしは母をなだめ、ゆっくりと休憩しつつ目的地に連れて行った。
 棟の裏には川沿いに桜並木があった。地元はちょっとした桜の名所だ。部屋数も一人で暮らすには多すぎるほどで、クーラーも二部屋に設置されている。一番近くのスーパーが少し遠いのは難点だったが、近くに小売店もあるし、家賃も安くて優良物件なのは間違いなかった。
 母が不調を訴えたのは精神的なストレスのせいだと思った。そもそも実家以外に住むのが嫌なのだから、気が向かないのは仕方なかった。しかし、もはや遠慮をして済む段階ではなかったので、ここに決める前提で話を進めようとした。母に質問はないかと聞いた。
「応接間のソファはどこに入れるの?」
 実家には応接間があり、昭和時代の名残を感じる大きなソファと椅子2脚のセットがあった。母は実家の荷物を全部、この団地の一室に運び込むのだと考えていた。わたしはそんな発想が浮かぶことに驚いた。
「必要な物しか持ってこないよ。だから、身の回りの物を選別しないとね」
 帰宅してからも、母は「仏壇はどこに置くの?」「ソファを持って行かないなら、それはどうなっちゃうの?」と質問を続けた。「処分する」と説明されても、具体的なイメージが湧かないようだった。この日は仏壇もいずれ処分するという話に、母が「そんな罰当たりなこと!」と怒り出して、喧々囂々やりあって終わった。
 わたしが東京に戻ったあと、母が「やっぱり団地は住めない」と連絡してきた。
「川の横だったでしょ。部屋に蛇が出そうだから無理だわ」
 母は蛇が大の苦手だった。一瞬(そんな理由で!)と思ったが、実家の庭でも青大将が出るような田舎なので、団地の部屋に蛇が来ないとは絶対に言い切れないところはあった。結局、この団地への引っ越しは見送ることになった。
 その団地はやはり人気物件で、わたしたちがお断りしたあとは、すぐ次の人が決まったらしい。しばらくして母は介護施設に入ることになったとき、集団生活がイヤでまたぐずりだして、「あの団地でいいわ。一人で暮らせるし」と言った。
 母には団地を早く決めなければいけない理由など、きちんと説明はしていた。もうほかの人が契約しているから無理だ、と告げると、母は理解できているのか曖昧な様子で「ああ、そうなの?」とつぶやいた。なんとなくわたしは、団地を確保しておけなかった自分が責められている気がして、ジリジリと腹立たしい思いがした。

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