猫目雑録
真魚八重子

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第10回
実家がなくなった!(10)
「本棚の亡霊」

 兄が生命保険に入っていなかったらと思うとゾッとする。二つの保険に入っていて、両方のお金が降りたから、リボの未払いなどが片付けられてなんとかしのぐことができた。
 念のため、母にも保険に入っているかを確認した。じつは今まで母の保険を考えたことがなかったので、かなりうかつだった。母は「わたしもそういうこと心配して考えて、入ったよ」と誇らしげに言った。保険会社はアフラックだと言う。しかし「入っていたけど、やめた」と続けたので、またもやわたしは不安に襲われた。
「なんでやめたの?」
 亡くなった長男が「もったいないからやめろ」とえらい剣幕で怒ったらしい。毎月の1万程度の保険料が消えるのさえ、惜しかったのだろうか。しかし母が入院や手術などしたら、どうするつもりだったのだろう。わたしと甥は高齢の母が今から入れる保険を探したが、不整脈のある母には加入は難しかった。母が亡くなる前にはおそらく入院したりする可能性も高いことを考えると、わたしの悩みは増した。

 リボの未払いや相続税に関して母と甥とわたしで話していたとき、甥が改めて言った。
「父さんが年内に死んでくれて良かったと思ってる。来年に入ったら、もうリボ払いもすぐ1000万を超えて、保険じゃ払いきれなかったから」
 母はもちろん、いきりたって「なんてことを!」と叫んだ。母親なら当然だろう。しかしわたしも、実害を受けている家族として、すでに甥と同じことを考えていた。
「お兄ちゃんは生きていたとしても、来年には自己破産せざるを得なかったよ。そしたらやっぱりこの土地を国に納めなきゃいけなくて、お母さんはどのみちここで同じようには暮らせなかったよ」
 母は悔しそうに黙った。息子が死んで良かったと言われて、怒らない母親なんていない。わたしたちの発言は本当にひどかったが、母にはそのくらい深刻な事態だと理解してもらう必要も感じていた。
 何か月かして、相続の話をしていたときに、わたしと母の間でまた同じ会話を繰り返すことになった。兄が生きていても自己破産一直線だったと、わたしは再び言った。すると母はなんとなく秘密めいた口ぶりで言った。
「お父さんが、連れていったんだと思う」
 父が長男をあの世に連れていった。そういった話を母は信じていた。わたしはイライラしながら「だったら、連れていくのが遅かったよ」と返した。

 この頃、わたしは実家に置きっ放しにしていた、本棚6架ほどにぎっしり詰め込んだ蔵書をすべて処分した。実家をつぶすのだから、東京の部屋に置くことのできないこれらの本をどうにかしなければならない。もう、どうにも取っておくすべがないと思った。
 東京に持っていってないのだから、確かに長年手にしていない本だ。しかし、中学生の頃からお小遣いで買い、ずっと手放すことなく身近に置いていた書物だった。自分の写真すら一枚も持っていないほど、思い出の品を取っておく習慣のないわたしにとって、唯一過去とつながる証明がそれらの大量の本だった。わたしという人間が出来上がった、背表紙を見れば一目瞭然といえるほど濃密な個人史といえた。
 実家の片づけに戻っているのは月に数日で、やることがたくさんあり深く調べている時間がなかった。わたしはネットで検索し、一気に古書の引き取りをしてくれる県内の書店を探して依頼をした。どこか、捨て鉢な気持ちだったかもしれない。
 当日、フライトジャケットを着たラフな服装の男性が現れ、次々と値付けをしていった。量が大量なので時間はかかったが、数時間ののち彼は「全部で2万円です」と言った。
 ショックだった。そんなに安いはずがない。でも、わたしの中に「時間がない」という焦りと、もはや「過去なんて打ち捨ててしまえばいいんだ」という投げやりな気持ちが渦を巻いていた。わたしはこのとき、自分の思い出をひどく軽視してしまった。そして、2万円ですべての蔵書を売った。
 本が運び出され、空っぽになった本棚を見て、心の底から震えあがるような不安を覚えた。自分が恐ろしいことをしでかしたのに気が付いた。
 大事な本を処分するというのは、魂に関わる問題なのだ。読み返すかどうかすら関係ない。ただ、存在を心にとどめ、傍らにあり続けること。自分の精神を作り上げている歴史と言うべき書物を軽はずみに失うのは、みずから人格を削ぐ行為に等しい。この日、亡霊のように空洞な本棚を見たことで、わたしの心は決定的に壊れたのだと思う。

表紙