眺めのいい文庫本
北條一浩

第1回|第2回第3回

第1回
北杜夫『怪盗ジバコ』(文春文庫、1974年)


怪盗と野良犬のあいだに、なつかしい悲しみがあると思う。

 文庫本というメディアがとても好きだ。もともとよく買っていたけど、中年から初老になったいま、ますます気にするようになった。
 だって、悪い所が一つもないのだ。軽く、持ち運びやすく取り出しやすく、安価で、古本なら均一でズラッと出たりするし、単行本で読み逃したもの、再読したいものにチャンスをくれる。解説があったりする。単行本との装丁違いも愉しい。
 強いて欠点をあげつらえば、老眼にはやや小さな文字がしんどいことが挙げられるが、それも最近の文庫はちゃんと心得て級数も大きめになっていて、ほんとに至れり尽せりである。
 で、ある頃からカバーで買ったりするようになった。カバーの装画に惹かれたり、装丁が小気味良かったりするとそれだけで価値があると考える自分に気がついたといったらいいか。念のために書き添えておくと、文庫本の面積はハガキ1枚とだいたい同じで、天地左右ともハガキより数ミリ大きい程度。それだけの小さなスペースの中に、本の中身と響き合うデザインや装画や写真、文字、フォントが込められているのだ。その「小ささ」の中でのおもしろい展開は、私にとっては単行本の装丁の鮮やかさ、美しさ、大胆さ、インパクトを上回る価値がある。
 そこでこの度、こうして書く場所をいただいたので、私がごくごく個人的にカバーがとても好きで傍らに置いている文庫たち、そしてむろん、カバーだけでなく中身も保証付きの文庫本について、月2回ペースでポツポツと書いてみようと思う。今日的な鋭い問題提起とか批評性のようなものはカケラもなく、だから通常の媒体にこういうものが載ることはまずないと思うけれど、当サイト主宰の佐野亨さんは「そういうものこそ良い」と背中を押してくれるので、さて、始めます。

 個々の作品の評価は別として、文学と呼ばれるものに、あらゆる意味で余裕がなくなってしまったのはまぎれもない事実だろう。小説なんかでも、あまりそういうことに頓着しない人が聞いたら、「えっ、そんなに少ないの?」と驚くくらいには初版部数は抑えられているし、売れっ子にならないと、あるいはよほど関心が持たれそうなテーマでないとなかなかエッセイ集なんて出してもらえない。本が出ないから収入は少ないし、「こういうのも書いてみるか」という、良い意味での「遊び」も出ない。
 その点、ある時代までの作家は、悪く言えば節操がないくらいにさまざまに書き散らしていた。その好例が、例えば今回取り上げる北杜夫である。バリバリの純文学を書き、『楡家の人びと』のような傑作長編(これはほんとに戦後日本文学の金字塔だと思います、ぜひ読んでください)があり、と思うとこの人で最も有名なのはやはりエッセーの『どくとるマンボウ』シリーズで、紀行もの、山岳もの、SFに童話、絵本がある。おまけに医者(精神科医)で、なんといっても父親が歌人の斎藤茂吉である。こういう人、いまどこにもいないのではないか。
 そしてかつて大量に並んでいた新潮文庫(むろん新潮社ばかりじゃないが、新潮文庫がなにしろ目立った)も、今では数冊しか出ていないはずだ。古書店や古書展で北杜夫の文庫本を見かけても、300円以上の値が付いていることはまずない。買う人もあまりいない(だから私がせっせと買っている。くやしいことに&うれしいことに買える値段だから)。読んだらまあ、かなりの確率でおもしろいのに。多作の作家はハズレも多いと言うけれど、北杜夫はかなり打率高いはずである。

 で、この『怪盗ジバコ』。1974年発行の文春文庫だ。「ジバコ」というのは、ボリス・パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』(ノーベル文学賞のはずだったのに、発禁だったため、ソ連当局から受賞辞退させられた作品)のモジリ。「ゴ」から濁点が取れて「コ」になった。 ユーモアとメルヘンにあふれた短編が8つ並ぶが、沁みるのはやはり表題作で、たとえばこんな部分。少し長いけど引用してみよう。

 とある東京の下町の夕ぐれどき。
 そこは地面の湿った露地で、人通りはほとんどなかった。ときどき、洗面器をかかえて風呂へ急ぐ男女の姿が見られるばかりである。
 電車通りの方角から、一人の六歳くらいの男の子が、うむつきがちにとぼとぼとやってきた。ほころびかけたセーターに半ズボン、ちびた下駄を突っかけている。
 近づいてきたのを見ると、その丸顔の顔が、なにかを懸命に堪えるようにゆがんでいる。そのまま十歩ばかり、つまづきながら歩く。と、その小さな体は、急に電柱にむかって走りだし、そのかげでしくしく泣きはじめた。これは人間というものがいかにか弱い存在であるかを証している。男の子が泣いたということより、電柱を求めたということが、である。大体、人間というものは、オシッコをするときも電柱を求める。自分はそうでないと信じる人でも、なんにもない原っぱの真ん中でオシッコをするとき、得もいえぬ頼りなさと空白感を覚えるだろう。

 ここでこの文庫本のカバーを見ていただきたい。わかる人には一発でわかるだろう、そう、谷内六郎による装画だ。むろん、これは引用場面を表した絵でも、どこか他のシーンを具現化したものでもないけれど、見事にこの本の中身と通じていると思う。庶民的でいながら同時にどこか非日本的な、匿名の街並みや道に犬がいて、洋館があって、そして「怪盗」という、誰も実際に見たことはないが映画や子ども時代に読んだ本(それこそ『怪盗ルパン』とか)でおなじみの、いかにもステレオタイプな黒づくめのタキシードにシルクハット、髭、眼鏡、傘。しかもここで怪盗ジバコその人は、空中浮遊している。まさに浮世離れを地で行く絵ではないか。

 引用部分に戻る。なんとも切ないようななつかしいような、そしてよるべない空間を、風を感じるシーンだ。谷内六郎の絵とも通底している。そして私が北杜夫をすごいと思うのは、「これは人間というものが〜」以下の切断。何の無理もない自然な文章の流れは崩さずに、いきなり「男の子」から「人間」にスイッチする。いや、これは切断やスイッチではなくズームかもしれない。男の子に寄っていたのを引いてみるとそこここに人間がいるのだ。そしてもう一つは水の変化。しくしく泣いていたというからそれは「涙」に違いないが、それが「オシッコ」になってしまう。思えば大人になるというのは、電柱に寄って「泣く」というその可憐さ、「どうしたの?」と声を掛けたくなるかもしれない可憐さを失い、いざとなれば誰も寄りつかないどころか避けて通るしかない立小便に身を落とす悲しみと隣人になるということかもしれない。

 立小便など犬も食わないが、北杜夫の小説世界では、そして谷内六郎の装画においては、そこを掬い取ってくれる。茶色い小さな犬(鎖もないし、野良犬だろう)が、じっと見ていてくれるのだ。

表紙