眺めのいい文庫本
北條一浩

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第2回
庄司薫『狼なんかこわくない』(中公文庫、1973年)


中途半端さに全力を傾ける。

 写真を見てください。このカバーの制作者がわからなくても全然良いし、いやむしろ名前を聞いて「あっ、そうなの? こういうのもあるんだ」と少々驚くことができたほうが楽しいとさえ思ってしまう。

 これ、和田誠さんです。

 知ってるよ、という声はもちろん聞こえますけど(幻聴かな)、和田さんといえばあのクリアな線でしょう。その線があるおかげで、この世の現実とは別の世界がいきなり目の前に立ち現れてしまうあのクリアカット。ところがこれは紙にセロテープ。そこらへんにあった包装紙かなにかを引っ張り出し、狼のカタチに切って(しかし明らかにハサミで切ったのとは違う、クリアカットじゃない「手」の触感が残る切れ方)、そこに眼を、眉を、頬を、鼻を、歯を描く。小学生の図工制作のような…… ところがこの白い歯、しかもいびつな歯並びはこれは子どもの技ではなく、ここにプロフェッショナルがついチラリと覗いてしまったような……。
 そして「狼」なんて字は生きものそのもののようで、どうしたって目を奪われてしまう、見事なカバーです。和田誠、1936年生まれ。庄司薫、1937年生まれ。同世代のコラボレーション。

 庄司薫はもちろん、『赤頭巾ちゃん気をつけて』がダントツ有名で、それに『白鳥の歌なんか聞えない』『さよなら怪傑黒頭巾』『ぼくの大好きな青髭』と続き、この赤・白・黒・青の薫くんシリーズ4部作の人として知られている。エッセイ集であり青春論でもある本書はマイナーなほうで、その証拠に新潮文庫から長崎訓子さんのカバー装画で4冊が新たにお目見えした際、この本まで「復刊」されることはなかった。

 あえて意地の悪い言い方をすると、これはかなりめんどくさい本だ。そしてくどい。この本は主に、「なぜ自分はしばらく小説を書かなかったか」の説明(言い訳?)にあてられている。本名の福田章二名義で『喪失』を書いたのが弱冠20歳、『赤頭巾ちゃん気をつけて』は30歳を少し過ぎていたから、およそ10年に及ぶ沈黙の内実について書いている。
 ちなみにタイトルの「狼」は、「若さという名の狼について」という章タイトルから来ていると思われるが、なぜ「狼」か、という明解な説明は本書の中には一切無い。自己否定に自己否定を重ね、何も考えない・頓着しない人から見れば「誰かに何か言われたわけでもないのに、何をそんなに自己否定にのたうちまわり、自家撞着に陥っているのか」と言いたくなるような状態が「青春」であり、それを「狼」と呼ぶのである。『赤頭巾ちゃん』の作家だから「狼」なのだろうと見当をつけ、赤頭巾ちゃんを食べようとして先回りし、けっきょくは食べたおばあさんも赤頭巾ちゃんも腹から取り出されてしまうシャルル・ペローのあの童話の狼の滑稽さ、悲しさに通じるものなのだろうと推測するしかない。

 ではこの本の、庄司薫の論理のめんどくささをしばし味わってほしい。引用する。

 ぼくたちがおいしものを食べるというのは、それだけ誰かの「おいしいもの」を相対的に奪っているのであり、美しい恋人を獲得するのは誰かの恋をそれだけ妨げているのであり、幸福になるのは 誰かを相対的に不幸にしているのであり、夢を抱きその実現に努力することは同じ夢を描く他者 を傷つけ弱くすることなのだ……。

 まあ、そう言ってしまえばそうだけど……。

 こうやって考えつめていくと、ぼくたちは、その存在すること自体ですでに「加害者」として機能しているということになるわけで、

 えっ。じゃ、どうするの?

 要するに「生まれてごめんなさい」、存在して申し訳ないとあやまって死なない限り、安定しない運命にある。

 安定って……。

 そして、改めて言うまでもなく、ほんとうに死んでしまうという形でこの自己否定を貫徹する方法は古来かなり多く行なわれてきたと思われる。(中略)
 ただ、あえて異を唱えると、死ぬということは、確かに将来においてなおも自分が「加害者」として存在し続ける可能性を完全に否定し、また同時にもちろん自らに対する告発・否定を貫徹するという点で完璧ではあるけれど、次の三つの点でなお不充分だともいえるのだ。

 ひええ、まだ続くのか。生きては詫び、死んでもダメだと。ね、めんどくさいでしょう? しかしこのあとの「次の三つの点」というのが実はなかなかに説得的で(ここはさらに長いので割愛しますが、本書を古書店で見つけたらぜひ読んでください)そしてそのあと、私が庄司薫の真骨頂と思う、例えばこんなセンテンスがやってくる。

 若々しさのまっただ中の死を選んだ最高に「純粋」で「誠実」な若者たちの墓標が燦然として並び、生きのびている若者たちに羞恥と屈辱を与え続けたりすることになる。

 これは、このような厳しい、あるいは揶揄的な言い方で、つまりは「死ぬなよ」と言っていると読めるかもしれない。もちろんその思いもあるだろうけれど、私はこれ、

 逆ギレ

と呼びたい。そしてそこが最高に面白い。このまわりくどさ、持久戦、粘り、要するにグダグダ、言い方はいろいろあろうけれど、軽くキレながら「死ぬなよ」のやさしさと共に生きること、それを言葉にすることこそが、今は完全に筆を折ってしまった庄司薫という人の書いてきたことではないだろうか。

 と、いうことで今回はおしまいにします。

表紙