本屋日誌
萩野亮

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第9日



絵本を置きはじめて、さしあたり気がついたことがある。絵本はおもろい、という事実である。
ズコー、とこれを読んでいる何名かは前方に転んだかもしれへん。しかし、わたくしは知らんかったのや、絵本がこんなにもおもろい、ということに。

絵本といえば、お子さまの本。なにやら教条的なありがたいお話が、イラストとともに平易な言語で書いてある、わたくしがイメージしておったのはそういう書物や。これがぜんぜん違った。室町時代の参詣曼荼羅かなんかとわたくしは勘違いしておったらしい。

絵本を店頭に置くにあたって、まず何から選べばよいものか。わたくしはまるきりわからんかった。どうするか。われら人民には、富める者もそうでない者にも、インターネットがあるやないか。「絵本 おすすめ」などを検索窓に入力すれば、巨大な情報サイトにすぐさまアクセスすることができる。ほう! そこでまずおどろいたのは、本たちが年齢別に分けられていることである。著者の、ではない。読者=お子さまの、や。なんと0才児が読む本がある。ふつうにある。

なぜわたくしは、これほどまで絵本について無知であるのか――。自然とそう反芻された。子どものころ、おかんは絵本を読んでくれたやろか。ひとつだけ、記憶に刻印されている光景がある。三才か四才くらいのころ、わたくしは風邪を引き、熱を出して寝込んでおった。そのときやったか、あるいは別の夜やったか。母が枕元で絵本を読んでくれたのや。象の話やった。水色の象。わたくしはその大きな生きものを、見たことがなかった。話の内容はおぼえていない。ただ、母が自分のために絵本を読んでくれた、そのことが何よりうれしかったのや。

後日、テレビでほんものの象が映っているのを目撃して、幼児のわたくしはひどく落胆、また怒りくるった。ほんまもんの象は、水色なんかでなく、薄ぎたない灰色をしていたからや。醜いと思った、象を、そして、ほんとうは灰色の生きものを水色に着色した大人を。というのはうそやが、わたくしの記憶に存在している絵本は、その一冊しかない。

というわけで無知。絵本サイトをたよりにまずは定番から仕入れてみる。『ごぶごぶ ごぼごぼ』や『もこもこもこ』など、赤ちゃん向けの本は、ほとんどハンス・リヒターの「絶対映画」、あるいはノーマン・マクラレンのノンナラティヴ・アニメーションのごとき世界で、岡崎乾二郎氏の『抽象の力』と併置してみたい欲望にすら駆られる。同様の定番書に『じゃあじゃあ びりびり』があるが、わたくしはこれを勧めない。水道のみずの音は「じゃあじゃあ」など、現象と擬音とがきわめて凡庸に接続されており、これでは想像力をはぐくむ余地がない。

絵本のすばらしさ、それは自由であることや。意味も教訓も要らない。ときにひたすらナンセンスであり、ときにひたすらたのしいだけの世界がここにある。世評の高い『ぐりとぐら』もこの機会にはじめて読んだが、拍子抜けした。なんという「何も起こらなさ」。うそのようなカステラが、うそのようなたまごによって、うそのように出来上がり、みんなで食べるとうそのようにおいしい。最高やないか。

あるいは当代一の人気作家「tsupera tsupera」の絵本はどうか。これまたおもろい。『やさいさん』や『くだものさん』なんかのしかけえほんはロカンタンでも好評ですわ。で、わたくしがなにより感銘を受けたのは『パンダ銭湯』や。これはお子さまにはもったいないくらい、上質な笑いで編まれている。自分の店で立ち読みをして腹を抱えて笑った。この国のお笑い文化、とりわけ語のほんらいの意味を逸脱して「シュール」とも評される最良の笑いが全面的に展開されている。

絵本よ、きみは決してお子さま向けではなかった。むしろ、「意味という病」(柄谷行人)に冒された大人こそが読むべきなんちゃうのか。そして、象は水色であって一向にかまわない。

萩野亮(はぎの・りょう)
映画文筆業。本屋ロカンタン店主。www.roquentin.tokyo

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