本屋日誌
萩野亮

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第8日



遅くまで眠っておったある朝のことや。カーテンを閉めきった窓外から聞こえる幼児と母親の声で、目が醒めたことがあった。

「行きたい、行きたい!」
「だめ」
「行きたいの!」
「だーめ」

しきりに駄々をこねている女の子を、お母さんが必死になだめているらしい。ねぼけまなこをこすっておぼろげな意識がはっきりしてくると、あれ、もしや、と思うた。声のあるじは、いつもうちで絵本を買ってくれる、あの女の子とお母さんとちゃうのか。

「本屋さん行きたいの!」

そして彼女が行きたい、と先刻からごね倒している宛先は、なんと本屋ロカンタン、つまりわたくしの自宅兼本屋であった。まさか、と思うた。そんなことがありえるのか。デイヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』を平台で展開し、『映画監督 神代辰巳』を棚に鎮座せしめている店に、幼児が用事があるという。なんという珍事。いや、そうやない。推定四才に岩波書店はまだしも、国書刊行会の書物はまだ早い。それもこれも、店先に絵本を着実に増やしてきたからや。みょうに意識が冴えわたってゆくうちにも、お母さんはだんだんと苛立ってくる。

「本屋さんだって、お休みのときはなかでねんねしてるんだよ」

そうや、その通りや。まさしくいま起きたとこや。おはようさん。――ちゃうちゃう。こら急いで店を開けなあかん、と思うた。蒲団一式をバックヤードたるテラスに放り出してざっと掃除をし、照明を灯して玄関のドアーを開けると、けれどそこに人影はあらへんかった。しまった、遅かったか。ひとり苦笑いを噛みながら、わたくしはなんだか泣きそうになっていた。うれしかったのや。


わたくしには妻も子もない。老いたる父母を田舎に放置し、四十路をゆく姉もまた独り身をつらぬいておるから、甥っ子/姪っ子の類いもない。子どもにはまるで縁がない人生、そう思うていた。ところがや。まさかこんなふうにして、子どもとかかわるようになるとは思わんかった。そう、本がつないでくれたのや。

三十代もなかばを越えたあたりから、つまり、自分が子どもを育てていても何らふしぎがない年齢になってからというもの、ベビーカーを押していたり、自転車の前や後ろ、なんやったらその両方、に子どもを乗せて路地を駆けてゆくお父さんやお母さんを目にするたびに、えらいなあ、と思うていた。そこに屈折した思いはまるでない。こころから、えらいなあ、と思うのや。わたくしは自分のことで精いっぱいやから。

本屋ロカンタンは西荻南の住宅街の一画、子どもが多いゾーンに在所していることは前回書いた。絵本を置いたら売れるんちゃうか、などという気もちはぜんぜんなかった、わけではもちろんなかった。けれど、それよりはもっとシンプルに、子どもも来てたのしい店であってほしい、と思うた。本を読むのは、とってもたのしいことやから。

きょうも店先で、お父さんやお母さんは、わが子が気に入る本はどれか、と声色を変えて一所懸命に朗読しながら、しきりに子どもの反応を見るなどしている。素敵やんか。
[まだつづく]

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