本屋日誌
萩野亮

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第7日



長らく休筆しておりました。まことにすみません。


絵本を置きはじめた。
というのも、本屋ロカンタンは商店街から一本ないし二本逸れた住宅地の一角に在所しており、界隈には子どもがたいへん多い。小規模な託児所もすぐそばにふたつほどあるし、通りを東にまっすぐ行けば小学校もある。自転車の後部にお子さんを乗せて、あるいは、お子さんと連れ立って、往来をゆくすがたを、わたくしはカウンターから毎日のように目にしておった。

「わあ、ここは大人向けの本屋さんだあ」と来店なさったお子から云われることもしばしば。いや、大人ですら入店をためらい、または足早に去ってゆくような店である。具体的には、アレハンドロ・ホドロフスキーの『タロットの宇宙』(国書刊行会、本体価格6,800円)が入荷月に三冊売れるような特殊傾向をもった本屋さんである。それはよい。とはいえ、悲しいやんか。わたくしは「セレクト書店」を営みたいわけではない。営む自信もない。もちろん、大手取次の配本に依拠せず、すべてわたくしが選書しているわけやから、事実として「セレクト書店」になってはいる。けれども、「態度」においてはもっと柔軟でいたい。

前にも書いたが、自分の好みの本だけを置いていても、大半のお客さんだけでなく、わたくしもまた、つまらぬのである。だっておどろきがないじゃん。うわ、こんな本があんねや。え、こんな本が売れんねや。ドヒャー、こんな本が巷間では求められてんねや。そういうおどろきこそが、本屋をやっていて大層おもろい。そしてそれを求めているひとに届けられると、心底うれしい。

多少横道に逸れるが、書店という商いのよいところは、他店の品揃えを大いに参考にできることである。いわゆる「町の書店」では何が売れているのか、いくらでもリサーチができる。わたくしは西荻窪に棲んでおるから、必然的に北口の今野書店さんを覗くことになる。この町には、人文書の新刊棚が息を呑むほどすばらしかった颯爽堂も、高架下の無個性な(それゆえかえって貴重だった)ブックセラーズも、もうあらへんのや。

本屋を始めてみて余計にわかったが、今野書店さんはかなり良質な本屋さんである。疲れないちょうどよい広さに、ベストセラーからややひねったものまで置いてあり、棚が起伏に富んでじつに活きいきとしている。わたくしはおもに、入ってすぐの新刊棚をチェックする。おわ、こんな本が出てんのか。え、これこんなに平積みに積むんや。そうして、おもむろに裏返して版元と価格に目を遣る。

――晶文社さんか、おっしゃすぐ取れるわ(契約している取次に発注できる)。
――岩波書店さんか、これも取れるけど利益出るやろか(掛け率が高い)。
――青土社さんか、やっぱええ本出すなあ、直取引でお願いしよかな(実現しました)。

と、こういう手合で、メモをしたいくらいなんやが、暗記をして帰る。帰途で忘れるような本はロカンタンには必要ないということや。そう思うことにしている。余談やが、わたくしは映画評を書くときも、試写室や劇場でメモはいっさい取らない。まず暗い。で、メモを書いているうちにも映画はめくるめく展開しているのやから、追いつかない。あとは、同じ理由。忘れてしまう細部は忘れたままでよい。そう思うようにしている。


何の話やったか。忘れた。そう、セレクト書店にはなりたくない、という話や。
わたくしはマルキストでも共産主義者でもないが、もともと「私的所有」に厭気がさして、これを放棄するべくして、自宅を書店として開放し、蔵書に値段をつけてこれもまた開放=解放、なんやったらカバーを布巾で拭うなどケアもしているから介抱、しているのである。趣味の本を蒐集、愛玩、パラフィンで後生大事に覆う、など、みずからの趣味的世界に埋没するような方角にはまったく関心がない。

さいきん縁あって『方丈記』を通読するなどしたせいで、いっそう「所有」することが阿呆らしくなってきた。もう、体ひとつでとりあえず生きられるだけ生きて、あとはもう死ぬだけや。というわけで、おいらはぜんぜん興味のなかった絵本を置きはじめたのさ。
[つづく]

表紙