本屋日誌
萩野亮

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第1日


本屋ロカンタン外観

蔵書に値段をつけて販売することの、この罪な感じよ。
違法/適法という問題ではない。というか、もちろん法の許す範囲で営業しているんやが、いまここで云いたいのは、たとえば佐藤真の『ドキュメンタリー映画の地平』上下巻(凱風社)を二,五〇〇円で販売してしまうことへの、ためらうことすら許可されない出し抜けの感、よりによってそれを買いますか、という一点突破の印象、についてである。

何の話か。 「映画批評」などという、いかにもいかめしい旧時代の肩書きをプロフィールにぶら下げて、物書きの仕事をしたり入院したりしていたわたくしは、どういうわけか二〇一九年秋に本屋を開店、新刊書を中心に商っている。

その店、というか自宅なんやが、で蔵書を販売している、のである。販売しない、という手もあった。メーンはあくまで新刊書であるから。蔵書は蔵書として陳列、ご所望の向きには貸し出しをする、などでも十分やと思う。しかしわたくしは売った。佐藤真を。

後悔していない、といえば嘘になるかもしれない。 持たざる人間であるわたくしにとって、本は唯一の財産やった。いや、たいした蔵書ではない。年収が二〇〇万円を越えたことがない人生を送っている甲斐性のない人間において、購える本などたかが知れている。大学の図書館でフーコーの思考集成を半年借り(修士論文執筆のためならたしか半年くらい借りられた)、傍線を引きまくって司書さんにえらい嗜められたビターな記憶があるが、古書価格で一冊一万二千円くらいするあんな本、買えるわけがない。

それでも、本は唯一の財産には違いなかった。だって、それだけの人生やから。本を読む、映画を見る、文章を書く。それだけの人生ですわ。死んでも本しか残らない。そしていま、その本すら、キャッシュに両替えしている。それほどカネに困っているのか。自棄のやんぱちか。ノー。なんとはなしに、本さえも、手放す気になったんやった。

病気をしとった。都合三回入院して、二〇一八年の秋に、ようやく抜けた感じがあった。抜けた、とか書いたらなんの病気かはだいたいわかると思うが、まア、そういう至極厄介なやつで、業柱を抱いて、今後、生きることになった。で、抜けてみたら、えらい楽になったんやった。病気になる前よりも、ずっと生きやすく、毎日ニコニコして暮らしている。ほんで、物を棄て始めた。要らんものは要らん。要るものも要らん。本も、もうええわ。なんかそういう菩薩的なところに至りはじめて、おいらは佐藤真を売ったのさ。


かれは、わたくしよりも年少だったろう。書棚にある佐藤真を手に取り、しばし眺めやり、さらに眺めやり、これいくらですか、と店主たるわたくしに聞いた。うわア、と声に出して云うた。それ、買いますか、とたぶんこれも声に出して云うた。古本を商いできるだけの相場観をもちあわせていないわたくしは、定価を見て、ごく適当に上下巻で二,五〇〇円という値段をつけた。たんに古書を商っているのではない、これはわたくしの蔵書なのだ。相場の価格よりも、いくらなら手放してもよいか、が大事かもしれなかった。

当時、日本一でかいと喧伝されていた町田のBOOK OFFで、わたくしはその『ドキュメンタリー映画の地平』上下巻を買うた。十五年あまり前、上京してきた大学生のころの話である。貪るように読み、あらゆる箇所に傍線を引いた。映画、とりわけドキュメンタリーの面白さにみるみるのめりこんでいったわたくしにとって、その本は、まさしく教科書のようなものやった。

佐藤真は、もういない。四九才という若さで、二〇〇七年九月、ひとりでに死んでいった。それから決して短くない日時が経過している。九〇年代から二〇〇〇年代なかばにかけて、佐藤さんは、ドキュメンタリーの理論と実践、そして後進育成の三つを、引き受けていた。そのことがかれを苦しくさせたんだよ、とある人は云った。そうかもしれない。実作者であり、かつ批評家であることは、想像を超えた困難があったのかもしれなかった。業柱を抱いて、佐藤さんは死んでいった。


「二,五〇〇円」という値段を聞いたかれは、いったん躊躇した。そのすえに、えいや、という勢いでもって「買います」とわたくしに告げた。

いまの時代に、佐藤真を読もうという若いひとがいる。傍線も付箋も気にしないという。そのかれに、まるでリレーのバトンみたいに、佐藤さんの思想を手渡せるなら、本望やないか。

表紙